【8人目の迷える子羊】    ユミコ カシワギ

 

不謹慎な視線

 

 このオバチャンはつい半年ほど前まで奈良にいた。

現在はタイ王国でダラダラと主婦をしながらズルズルと写真を続けている。

彼女は以前から視線が不謹慎なことで定評があったが、今回DROPBOXに放り込んできた画像は見る側にも妄想を求める参加型の作風になっていた。

共犯するよう、つまり見た瞬間に思わず不謹慎なセリフを脳裏で言ってしまうように扇動してきている。

 

 仏像を笑ってはいけない。

 しかしこの1枚を見て思い浮かぶ言葉は

 個人的に「ちょっとアンタ、忘れもんだよ」しかない。

 

ところで近頃、写真と短歌を組み合わせたりするのが流行っていると聞いたけれど、それは写真と短歌、両方に対する思慮不足である。写真をあらかじめ言葉で限定した方がいいのは広告を目的にしている場合だけだ。わかりやすく、人が飛びつきやすいからう。

 

でも作品としての写真は、あえて言葉で枠をつけずに投げてみてほしい。言葉がなくても互いにピンとくる瞬間を求めてみてもらいたい。

 

 

例えばこれを見た瞬間、死体遺棄現場を思ってゾッとする人もいるだろう。でも

 私には、1本足の傘オバケと同類のドラム缶お化けが後ろにコケてしまい、起きられずに「誰か起こして」と言ってる声が聞こえる。

  これは「今日は電車にしよ。」という軽いノリで平城京まで近鉄で行く中大兄皇子を想像した。セリフはない。

 

ちなみにカシワギは壮大な宇宙であらゆる生命体にコンタクトしながら生きているので、撮影地がタイか日本かで画像フォルダを分けたりなどしない。

 この中大兄皇子と先ほどの足が生えてるドラム缶が同じフォルダに放り込まれていて、なんの注釈もなかった。

これは注意すべきところでもある。組写真の作品として仕上げる場合、真ん中に1本の筋が通っていなければいけない。無国籍な刺激を追求していくなら、中大兄皇子の写真は外すことになる。日本人にしかピンと来ない写真は刺激のスケールが小さい。

これは自由度が高い1枚だと思う。想像が果てしなく広がっていく。

 

壁に飾っておけば、毎日あらゆる不謹慎なストーリーを妄想して楽しめる。

 

 ここにも実は大事なポイントがある。誰かの個展に行って、感銘し、数多い点数の中から1枚を選んで買うとしよう。マネーゲームを楽しんでいるコレクターは別として、その1枚を壁にかけて生活空間に取り入れたいと思って買う人は、その作品から自分がどれほど多くの発見を見つけ続けられるかという尺度を何よりも大切にすべきだと思う。世の中での評価なんてどうでもよくて、自分にとってどういう作品かだけ考えて選べばいい。

これは残念ながら、お約束の写真になってしまっている。わかりやすいがゆえに難しいケースだろう。これをシュールに撮れる人がいたら素直に尊敬する。私なら負けを認めて撮らずに去る。

 

 

 

 

 

 

流れ、つまり組写真という繋がりの魔力を体得できると、写真を見ることの面白さが急に広がっていく。作り手は、あなたをどこへ連れていこうとしているのか。その波に乗れた時の心地よさが、写真を知る醍醐味でもある。この犬の写真に何を思うか。それは果てしなく自由だ。彼女自身もまだ確固とした軸を見据えて作品を作っているわけではないと思う。けれど、ただ犬が走っているだけの写真を、ここまでド真剣な中途半端さで撮るおばちゃんの不可解さは、図らずも作品の軸になっている。そこが個人的にはツボだ。私の中に響いている言葉は「急いで殿に知らせねば!」だ。もちろん深い理由はない。